コラム

「余裕」を持つこと

多忙な日常が神経をすり減らす

多忙な日常を繰り返すサイクルの中で、人間の心はどこか摩耗していくものだ。

神経をすり減らし、本心ではやりたくない仕事も、自ずと進んで勝ち取らなければ、自分の居場所さえ失くしてしまう。

そうした生活を続けると、一時の安らぎに多くの見返りを求めてしまいがちだ。
「寝たい」「遊びたい」「何もしたくない」

心身にマイナスの負荷をかけていくほど、本能はプラスの欲求を渇望する。

そのサイクルに蝕まれたときの休息には、どこか罪悪感にも近いものを感じてしまう。
「本当にこれで良かったのか?」と。

どこかで疑問を持ちながら自分を正当化するのだ。

 

スポンサーリンク

 

堕落への恐怖

わたしはやりたいことが数多い。それでも毎日大きな不安を積み重ねて生きている。

どこかで“余裕”を持つのは、人が人らしく生活をするために必要なことだ。

ただ、特別秀でた才能がなければ知恵も学歴もない。

毎日金銭的な不安と向かい合い、己の心を抑制している。

正直誰よりも野生の人間として生きている実感を得られるが、満足はしていない。

それは心に余裕を持つ暇がないからなのかもしれない。

いつかは人並み以上の生活と、心の安寧が欲しい。

懸念があるとすれば、この生活から抜け出したとして、その反動でどれだけ自分が堕落してしまうのか。

負荷があるから、成長意欲も沸くものだ。
“楽”を知っているからそれが怖い。

“余裕を持つ”とは、負荷の中に自分が堕落しないオアシスを見出すことなのか。どのような解釈にしろ、一概に定義づけるのは難しい。

仮にオアシスではなくても、目標のために必要不可欠な要因であったのならば、だれもが自然に自分を肯定できるだろう。

-コラム

© 2021 とまブロ!