コラム

「承認欲求」は人間に毒と言えるか?

昨今の世の中には「知ったかぶる」と、言葉があるように、表面上の物事だけを捉えて満足してしまう人が多い。

そして、人間特有の「満たされたい」という願望がこれらと結びつき、虚栄心を生み出している。

結果、中身の詰まっていない知識の押しつけが、人間関係を悪化させたり、精神的な弱さを露呈させているように感じる。

仮に知識欲があるならば、自ずと不知を自覚して、相手の考えや自分の知らない物事を聞いてみたくなるのではないか。

なぜならば、自分と他者では物事を考える、根源的な部分が明確に違うからである。

人が大人になるまでに形成する、あらゆる物事の捉え方は環境に左右されるものだ。

例えば昨今では、情報社会といわれ、誰でも気軽に欲しい情報を得られる。すると、自分のアイデンティティに悩む年齢になった少年たちは、どうも反抗期に反抗的な情報を敢えて取るのが美徳と感じるらしい。

残念ながらインターネットを通して得られる情報の手軽さこそが、承認欲求を満たすための手段として利用されやすい。

結果としてSNSなど、匿名性の高いコミニュティでは、年齢に関係なく分不相応の賢者を気取る構造を生み出しているのかもしれない。

 

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過去、歴史に名を連ねる賢者たちは、少なくとも他者の考え方に好奇心旺盛であり、彼らは自分の欲求に正直だとわたしは考えている。

故に知らない物事を知ろうと考えるか、自分なりの見解を持ち合わせている。だからこそ、多くの人が中身のある意見であると納得しているのだろう。

面白いことに、彼らの生み出した哲学やそれに付随する学問は、数百年と時間を飛び越え、当の本人ですら思いもよらない考察の数々が生まれた。

彼らの考えは連鎖的に受け継がれ、現代を生きる上で道徳的に学ぶべき教養としても広まっている。
わたしたちにとってもその恩恵は計り知れず、人生の逆境を教訓にすら変えてくれる価値がある。

しかし、大多数の人が求めている自分の在り方とは、そんな偉大な賢者たちのように、“物事の本質を理解しようとする自分”や、“受動的な感性を観察する自分”ではない。

されど、大衆の求めている姿とは、まさに偉人たちのように、周囲の人々が憧れ、尊敬し、何かしらの名声を得た夢の中の自分だったりする。

人間は自然界における動物たちのように、自分の強さを誇示して生存競争を生きているのだろうか。

もし、本能的に子孫を残すため、他人との“名声”を比較しているならば、自己の「承認欲求」を容易く満たせる今の娯楽やコミニュティの数々は、人間にとって真の意味で「毒」になると言える。

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