なぜ人は「哲学」に魅入られるのか

『考える』

地球上においては人が最も力を発揮できる習性だ。

人類は歴史の中で数々の学問を開拓し、その研究を重ねてきている。

人が生きるために学問は必要なもので、なくてはならない。

そして知識の探究と積み重ねは、人を地球の外にまで進出させたのだ。

古来より数多くの学問が存在しているが、中でも特に大衆を惹きつけるのは「哲学」かもしれない。

何かを学ぶにしても、大概はどこかで哲学と結びつく。
「徳」とは?「正義」とは?「生きる意味」とは?などだ。

思うに、人類が始祖から進化を遂げた後、狩りや農耕のために道具を創り出した。

また、コミュニティで活動する中で、いつしか言語や文字が生まれた。

学問はこれらの要素がなくては存在し得なかっただろう。

そうしたことで、人間はいつしか知識を追求し始め、物事に根拠や理論すら求めるようになった。

これらの欲求こそ、多くの人々を哲学に魅了する要因なのではないだろうか。

 

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人間は社会的な生き物であり、昔から多くのルールが存在している。

あらゆる物や事に存在する意味があって、この社会が構成されているのだ。

例えば、オフィスビルは多くの社員を抱えた会社が効率よく業務を行うためであるし、道路の標識は交通を安全でスムーズにするためだ。

数字を学ぶのは生活の中で損得勘定を会得するものだし、音楽や芸術は娯楽のためである。

哲学は人が生きていく上で、理論だけでは説明が付かない不変の物事を、各々が都合よく理解できる学問なのかもしれない。

なぜ人間は生きていかねばならぬのか、あなたは多くの人が納得できる説明ができるだろうか。

子孫を繁栄させるため?

それなら子を残せない、残さない人間は生きていく価値がないのだろうか。

恐らく、人を含む多くの生物が生きていることそれ自体に意味はないのだ。

それでも「人生は辛く困難なものだ」と、捉える人々は、何かしらの意味を自分の生きている現実に求め、願うものだ。

哲学はそんな迷える子羊たちに生きる勇気や、人間として生まれた価値を見出してくれるのだろう。

マルティン・ハイデッガーは「世界内存在」という概念を用いて、“人は決断で自己を選ぶもの”だと訴えた。

少なくとも、人間一度は物思いにふけったように、哲学的な思考を巡らせる。

言葉を話し、科学を身に付け、幸せを追求する生き物だからこそ、答え探しのように哲学に魅せられるのだ。

「催眠術」と「心理学」

「催眠術」についてどのくらい知られているだろう。

わたしは全くその知識を持ち合わせていない。

今のところ信じていないし、誰かにかけていただける機会があるならば、ぜひ体験してみたいほどである。

世の中には胡散臭いと感じるものが多く、催眠術とてその例外ではない。

しかしながら催眠療法など、医学で知られている世界もある。

簡単に調べてみると、催眠療法の研究品質は高いものといえないようで、実際に効果を確認できると判断するのは困難なようである。

わたし個人の見方として、催眠術の手法は下記のようなイメージだ。

  1. 一種の心理学に基づき、言葉巧みに相手を肯定する。
  2. そのときの心の変化をあたかも催眠術の効果だと認識させる。
  3. セルフイメージの増幅を促した、プラセボ効果に近いものを体感し、気持ちが高揚する。

こんなものは憶測に過ぎず、断定もできない。おまけに根拠だって証明できないので、わたしはまだまだ学ばねばならないと自省した。

 

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ところで、人間は物事の受け取り方一つが、生き方から心身の健康にまで作用するのは有名な話である。

“何をどのように受け取るか”は、当然人によって違う。わたしのような捻くれた人間だって自分でも分からない。

もし、物事の捉え方と催眠術の体感効果に関係があるならば、他人を信じやすい人や精神的に弱っている、“何か”にすがりたい人は、
催眠術の効果にかかりやすいかもしれない。

または無知であるものの、催眠術のプロセスの中で何かしらの効果を体感し、「こういうものか!」と、納得してしまう人も適正があるのだろうか。

残念ながらこれらの仮説は前記の推測から出たものに過ぎない。

仮にそうだとしたならば、効果の分かれ道は心理学のさまざまな実験に共通するものを感じる。

心理学の実験においては統計的な分析で得られた結果を根拠にしている事例がほとんどだ。結局大多数の人間に当てはまり、そうでない人も少なからずいるという結果になる。

数値の割合は実験ごとに違うために定かではないものの、2グループで分けたあらゆる実験の検証結果は、概ね7:3か、または8:2くらいの数字が出そうなものである。

すると、これらを一括りにして結論付けられる魔法の言葉が使える。「効果には個人差がある」というやつだ。

どちらにせよ、わたしたちは心理学が好きな傾向にある。

しかし、その理由には表面的な「面白い」の一言だけで片付けられない側面もあって、そこには欲望的な人間らしい感情が隠れている。

皆、正直になれば敵を作ってしまうため、本心をなかなか話さないが、他者を操りたい“支配欲”がそこには存在している。

もしかすれば、一部の人は娯楽目的で心理学を学び、「確かに!」と“共感”するか、自己暗示で自分を変えたい“成長欲”に連なるものもいよう。

ここまでの仮説や憶測が根底から間違ってあれ、やはり知れば知るほど催眠術と心理学は、密接な関わりにある気がしてきた。

催眠術は心理学を応用した一種の“解釈方法”であり、人間の心理的欲求を揺さぶる高度なテクニックだとすら思える。

哲学や宗教的思想など、解釈一つで人に大きな変化をもたらすのは面白い。

それらと同じで、「催眠術と心理学のどちらも、自分のために使うのは幸福の近道」などとといわれればわたしは大いに納得してしまいそうだ。

高まる「無形資産」の価値

『NFT(非代替性トークン)』を知っているだろうか。

仮想通貨で用いられる“ブロックチェーン”技術を生かした『デジタル資産』である。

ブロックチェーン技術は、そのネットワークに参加しているユーザー同士で取引台帳を共有する。

このおかげで、一部のコンピューターから不正な取引が発生した場合、他の大多数のコンピューターから、多数決で正しい取引データを決定するのだ。

NFTではここに着目し、画像・動画・音楽まで、あらゆる物に固有の署名を行う。その署名された資産を持つ者は、台帳の記録から資産の権利を主張できる。

2017年ごろからNFTに関わるサービスが徐々に稼働し始め、これら固有の署名されたデジタルアートの数々が、仮想通貨「イーサリアム」を通して既に取引されている。

2021年3月22日には、Twitter創業者のジャック・ドーシーの記念すべき初ツイートが、3億2000万円で落札された。

 

 

また、NFTを推進している者たちは将来不動産など、有形資産を含むあらゆる資産の所有権はブロックチェーンを介するとみているらしい。

思い返せば産業革命から今日に至るまで、企業の投資先は有形資産から無形資産へとシフトしている。

仮想通貨の価値とはブロックチェーン技術など、まさに無形資産の価値が裏付けており、多くの企業がこの技術を活かした事業を展開し始めた。

これからの時代、形なき無形資産はその価値を高める一方だ。

それは「新型コロナウイルス」の蔓延により、大手企業が次々と本社ビルを手放した事実から一層加速している。

 

引用:コロナ禍で輝き失うオフィスビル-大手日本企業の売却検討相次ぐ – Bloomberg

 

場所を問わず仕事ができる仕組みさえ整えば、確かにオフィスなど不要なのかもしれない。

実際、レンタルオフィスやコワーキングスペースの利用者とその店舗数は増大し、働き方も大きく変化している。

今後も世界的なパラダイムシフトが進めば、今まで以上に公的な書類や契約書類などがデジタル化していくだろう。

素人考えでも予見できそうなことは、この先仮想通貨の存在意義であるブロックチェーン技術は、企業と企業の繋がりや、個人間の取引にも頭角を現す技術だと思えることだ。

 

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未来技術は日常生活が便利になる半面、人々の暮らしに変化を強要してくれる。だからといって、わたしたちの生活が豊かになる保証はない。

それを裏付けるかのように、著名な専門家たちは各種メディアで警鐘を鳴らしている。彼らは老後を見据えた「資産」と「変化している社会を生き抜く自力」を身に着けるべきだと。

わたしたちは自分たちの人生を清く全うするため、変化の時代を生き抜いてきた企業に習い、今まで以上に形なき資産と向き合う必要がありそうだ。

求めるべきは、人との繋がりから権利・特許などの「知的資産」、個人が持つノウハウのような「人的資産」、企業が持つ柔軟な業務プロセスや価値ある文化の「インフラ資産」だろうか。

インフルエンサーたちはnoteやYoutube、ブログが「知的資産」になり、彼らが持つ成功の法則や鉄則は「人的資産」。そして、それらの形成には「インフラ資産」の土台がしっかりと組まれている。

この分析が的を得ているのか、わたし自身が実証してみるべきなのだろう。

人生を豊かにする「投資先」

あなたは“投資”と聞いて何を想像するだろう。

「株」「債権」それと「仮想通貨」かだろうか?「不動産」や「事業」かもしれない。

これらは結果的に「金」を増やす目的の投資とみれば、十分な選択肢だと考えられる。

実際、この世界のあらゆる事柄は金で成り立っている。大概のことは金で解決できるのだ。

以前、酒場で話したとある経営者は、「お金を持つに相応しい人にならなければ、周りから多くの嫉妬や妬みを買う。あるいは欲に支配されるだけの中身のない人間になってしまう」というものだった。

勿論、誰にでも当てはまることではないかもしれない。金を持つという現実に、自然と中身が追いついた人もいるであろう。

わたしも彼も、そのときの会話で最も共通した認識があった。それは、“金があろうとなかろうと、自分自身への投資を怠るのは勿体ない”ということだ。

彼は設備会社を営む50代の経営者だった。

現場では若いころ、多くの現場監督やほかの職人たちとの関わりあいを大切にしながらも、自分磨きを怠らなかったという。

中学を卒業してからは家計を支えるために、高校進学を諦めた。

その代わり、休みの時間は常に読書をしていたらしい。働くことと勉強を両立し、今では設備会社を経営していて、高級車を乗り回すのが趣味のようである。

また、彼は週に一度は必ず図書館へ足を運び、多くの本から社員教育や事業のヒントを貰うようだ。

夜はベトナム語を友人からレクチャーして貰い、外国人の雇用も考えているらしい。

そんな人生経験が豊富な彼は、今でも自分への投資を続けているのだ。

 

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孤独な経営者は意外にも多いと聞く。

わたしの知り合いに仕事をほとんど外注し、自分は自宅に引き篭もって寝ているという者がいた。

彼はそんな生活を数年前から続けていたのだから、金には困っていないものの、常に強い倦怠感に苛まれていた。

そして、彼に没頭できるような趣味はなく、それを探す気力もなかったようであった。

彼は特殊だが、もしも彼がほんの少しでも、読書やなにか習い事に投資していたらどうなっていただろうか。

わたしは前記した設備会社の経営者のように、活発的で魅力的な人物になっていたと思える。

金があるからといって、ただそこだけに満足するのはとても勿体ない。イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルもこのような言葉を残しているではないか。

「満足な豚よりも不満足なソクラテスである方がいい」

偉大な思想家の言葉をここで引用するのは大変恐れ多く、彼を強く信奉している者たちから辛辣な言葉をいただけそうだ。

ただ、伝えたいのは偉人の言葉ではない。

たった一度の人生をせめて一辺の悔いも残らないものにしたいなら、自己投資を怠るなといいたい。

経験した過去や体験した事柄は、自分だけの無形資産であり、やがて長い人生を生きる上で、必ず活用できる日が来るはずだ。

自分の経験・体験が活きると、シンプルに嬉しい。そのささやかな喜びに胸を躍らせ、なにごとにも挑戦し続けるサイクルに入れのではなかろうか。

すると、自分の“やってみたいこと”を結果的に実現していたりして、幸福だって感じられる。

多くの成功者をみても、結果や仕事の成果にこだわる人をみても、やはり自己投資を怠るべきではないのだ。

「承認欲求」は人間に毒と言えるか?

昨今の世の中には「知ったかぶる」と、言葉があるように、表面上の物事だけを捉えて満足してしまう人が多い。

そして、人間特有の「満たされたい」という願望がこれらと結びつき、虚栄心を生み出している。

結果、中身の詰まっていない知識の押しつけが、人間関係を悪化させたり、精神的な弱さを露呈させているように感じる。

仮に知識欲があるならば、自ずと不知を自覚して、相手の考えや自分の知らない物事を聞いてみたくなるのではないか。

なぜならば、自分と他者では物事を考える、根源的な部分が明確に違うからである。

人が大人になるまでに形成する、あらゆる物事の捉え方は環境に左右されるものだ。

例えば昨今では、情報社会といわれ、誰でも気軽に欲しい情報を得られる。すると、自分のアイデンティティに悩む年齢になった少年たちは、どうも反抗期に反抗的な情報を敢えて取るのが美徳と感じるらしい。

残念ながらインターネットを通して得られる情報の手軽さこそが、承認欲求を満たすための手段として利用されやすい。

結果としてSNSなど、匿名性の高いコミニュティでは、年齢に関係なく分不相応の賢者を気取る構造を生み出しているのかもしれない。

 

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過去、歴史に名を連ねる賢者たちは、少なくとも他者の考え方に好奇心旺盛であり、彼らは自分の欲求に正直だとわたしは考えている。

故に知らない物事を知ろうと考えるか、自分なりの見解を持ち合わせている。だからこそ、多くの人が中身のある意見であると納得しているのだろう。

面白いことに、彼らの生み出した哲学やそれに付随する学問は、数百年と時間を飛び越え、当の本人ですら思いもよらない考察の数々が生まれた。

彼らの考えは連鎖的に受け継がれ、現代を生きる上で道徳的に学ぶべき教養としても広まっている。
わたしたちにとってもその恩恵は計り知れず、人生の逆境を教訓にすら変えてくれる価値がある。

しかし、大多数の人が求めている自分の在り方とは、そんな偉大な賢者たちのように、“物事の本質を理解しようとする自分”や、“受動的な感性を観察する自分”ではない。

されど、大衆の求めている姿とは、まさに偉人たちのように、周囲の人々が憧れ、尊敬し、何かしらの名声を得た夢の中の自分だったりする。

人間は自然界における動物たちのように、自分の強さを誇示して生存競争を生きているのだろうか。

もし、本能的に子孫を残すため、他人との“名声”を比較しているならば、自己の「承認欲求」を容易く満たせる今の娯楽やコミニュティの数々は、人間にとって真の意味で「毒」になると言える。

「偏見」は人生をつまらなくさせる

世の中には“インフルエンサー”と呼ばれる、大きな影響力を生み出す人がいる。

彼らの中には大衆の共感を誘う発言に添えて、まるでそれが絶対的な真理であるかのような、独自の考えを発信する者も。

これが拡散されると、多くの熱狂的で信仰深いファンを作り出す。
実に見事な手腕だと思うし、無名の頃から地道な努力を積み重ねてきた、まさしく努力の賜物といえよう。

一方、この異様な光景は古来より昔、それが当たり前のことだった、神への信仰に近いものを感じるときがある。
まるで、デルフォイの神殿で神託を授かる、古代ギリシャ人たちを彷彿とさせるようだ。

インフルエンサーの発言が、デルフォイの神託であり、フォロワーやファンの人たちが、熱心な神論者である。

ただ、発信している情報が、道徳的に真の有益とする人も多い。
中には目から鱗ともいえる、斬新なアイディアがあったりするかもしれない。

SNSでフォローしている人たちが、何か社会的な問題や時事に触れたとき、人は自分なりの考えを持って、彼らの発言を受け止めているだろうか。

多くの人たちは、道徳的に最もらしい発言だと感じれば、「間違いない」と感じて思考をやめる。
結果的に、目の前の問題に対して自分自身で思考せず、誰かが発信した意見を自分の物にしてしまうのである。

その方が遥かに楽ではあるし、自分への反対意見や、心無い言葉の暴力で傷つくリスクもない。

人は誰しも不快な思いはしたくないし、傷つきたくないのだ。
だが、これらの行動は如何なものか。

あなた自身の物事の考え方は、いつかあなたが支持している者たちの考え方に置き換わってはいないか。

SNSでよく見受けられるのは、大多数の人間が面白おかしく政治や事件を批判している流れに乗っかることだ。

同調圧力がそうさせるのか、自己の判断力が低下しているのか、恐らくはそのどちらも当てはまるだろう。

きっとこの集まりに参加する理由の大多数は「盛り上がっているから」「何となく」「面白そう」という、悪意なきものである。

このときの同調する一体感は、人に快楽を与え、やがて個々の深層心理に根を伸ばす。
そうして、やがてはあらゆる事柄に対して「偏見」を持っていくのだ。

それは究極的に事実を知ろうとしない、知りたくもない、そんな気持ちを生み出して、他者を否定しやすい人格を形成していく。

間違いなく、自分の人生をつまらないものにさせてしまうだろう。

他者の意見と己の思考を比べ、あるいは取捨選択し、唯一無二のアイディアへと昇華させていく。
これが人間だけに許された、至高の喜びの一つではないのだろうか。

思考は自由であるならば、一方通行な偏った物の見方は好ましくないと伝えたい。